studioBAKER Novel「Directors Chair」14 – 合同会社BAKER-ベイカー

studioBAKER Novel「Directors Chair」14

studio BAKER

スタジオベイカー短編小説「ディレクターズチェア」

第14話「曖昧になる境界線

映画館のホールにひっそりと佇むディレクターズチェア。
光田浩一は、その椅子の背もたれに触れながら息を呑んだ。先ほどまでスクリーンに映し出されていた「影」は、まるで現実に染み出してきたかのようだった。佐伯監督がかつて対峙した何かが、今まさに光田の目の前にある気がしてならない。

「お前も、ここまで来たか」

耳元で、誰かの声がした。

光田は反射的に振り返った。しかし、ホールには誰もいない。ただ、古びたスクリーンが薄暗い光を反射しながら静かに揺れているだけだった。心臓が異常なほど速く脈打ち、全身の毛穴が開くような感覚があった。

「…気のせいか?」

そう自分に言い聞かせ、映写室へと戻ろうとしたその瞬間、ホールの壁に飾られていた一枚の写真が目に留まった。埃をかぶり、時代を感じさせるモノクロ写真。それは、かつてこの映画館で上映された作品のスタッフ集合写真だった。

「佐伯監督…?」

写真の中央には、見覚えのある男がいた。佐伯謙一郎――若き日の彼が、撮影クルーたちと共に写っている。だが、光田が注目したのは、佐伯監督の後ろにぼんやりと写る「もう一人の影」の存在だった。

まるでその影が、監督の背後からそっと覗き込むように映り込んでいる。

「これは…映り込みじゃない…?」

光田の手が震えた。その瞬間、背後から映画館のドアがギィィ…と軋み、冷たい風が吹き込んできた。

「…誰かいるのか?」

問いかけても、返事はない。だが、確かに人の気配があった。

光田は意を決して、映写室に戻った。見つけたフィルムをもう一度確認する必要がある。映写機にフィルムをセットし、慎重に再生を開始する。スクリーンに映し出されるのは、例の森のシーン。木々の間を彷徨う男、その背後を追う「影」。

しかし、今回の映像には以前と違うものが映っていた。

「……これは…?」

画面の奥、森の中に、朽ちかけた古い映画セットが見える。よく目を凝らすと、その中に“もう一人の監督”がいるのだ。白いシャツを着た男が、ディレクターズチェアに座り、何かを呟きながらフィルムを覗き込んでいる。

それは――佐伯監督だった。

「……そんな、ありえない……」

光田は何度も目を擦った。佐伯監督がスクリーンの中にいる? いや、これは過去の映像のはずだ。しかし、映像の中の監督は明らかに“こちら”を見ていた。そして、その傍らに、例の「影」がゆっくりと近づいていく。

「見てはいけない。振り返るな」

突然、映像の音声に混じって、囁くような声が響いた。それは以前の解析で発見された声と酷似していたが、今回はより明瞭で、生々しく感じられた。

「監督…見ていたのか。お前も?」

その声を聞いた瞬間、映像の中の佐伯監督が急に振り向いた。そして、その顔が、恐怖に歪んだ表情へと変わった。

次の瞬間、映像が激しくノイズにまみれ、光田の視界が真っ白に染まる。


気がつくと、光田は映画館の床に倒れていた。全身に冷や汗をかき、呼吸が荒い。映写機は止まり、スクリーンは真っ暗になっている。

「……俺は、今、何を見たんだ?」

光田はふらつきながら立ち上がり、ホールへと戻る。そして、佐伯監督の写真にもう一度目を向けた。

だが――

そこには、さっきまでなかった「もう一人の男」が写り込んでいた。

「……俺?」

光田は愕然とした。写真の中に映るのは、間違いなく自分自身だった。監督の背後に立ち、彼を覗き込むように映る影――それは、光田そのものだったのだ。

「……どういうことだ?」

光田は写真を震える手で取り外し、裏側を確認した。そこには、過去の日付が記されていた。

「1973年――『月夜の囁き』撮影開始」

1973年。自分が生まれるはるか前の記録。しかし、そこに映る自分の姿は、どう見ても現在の自分だった。

「これは…時間が歪んでいるのか? それとも、俺が……」

光田の意識の中で、何かが崩れ始めた。過去と現在、記録と現実、スクリーンの中とこちら側――その境界線が曖昧になっていく。

「佐伯監督は、過去の“影”を追っていたんじゃない…“未来の影”を見ていたんじゃないのか?」

そう考えた瞬間、ホールの奥からギシリ…と椅子が軋む音が響いた。

光田が振り向くと、ディレクターズチェアがわずかに動いていた。まるで、誰かがそこに座ったかのように――。

翌朝、光田は撮影ミーティングに顔を出した。しかし、その顔色はひどく悪く、目の下には深いクマが刻まれていた。スタッフたちは彼の異変に気づいていた。

「光田さん、本当に大丈夫ですか?」 渡辺沙織が心配そうに尋ねた。

「……ああ、大丈夫だよ」 光田は曖昧に笑う。

だが、彼の態度は以前とは明らかに変わっていた。撮影の進行を話し合っていても、彼の意識はどこか上の空。時折、誰もいないはずの場所を見つめ、何かを聞き取るように耳を傾ける仕草をする。

「ねえ…光田って、ちょっと様子おかしくない?」 カメラマンの井上大輔が橋本恭平にそっと囁く。

「……わかる。なんていうか、誰かと話してるみたいなんだよな」

スタッフたちの間に、不安の色が広がっていった。まるで光田は、この映画を作ることに囚われすぎて、何かに取り憑かれたように見えたのだ。

(第15話へつづく)
(文・七味)