studioBAKER Novel「Directors Chair」16
スタジオベイカー短編小説「ディレクターズチェア」
第16話「椅子の呪縛」
光田浩一は、映画館のホール中央に佇むディレクターズチェアを見つめていた。
撮影は確実に異常な領域へと踏み込んでいた。映像には存在しないはずの影が映り込み、誰もいない場所から囁き声が聞こえる。スタッフたちは不安を募らせ、光田の変化に恐れを抱き始めていたが、彼にはもうそんなことは関係なかった。
この映画を完成させなければならない――それが彼の中で確信に変わっていた。
だが、その確信の裏で、彼の意識は少しずつ“何か”に侵食されていることを自覚していた。
この椅子に座るたび、佐伯監督の思考が流れ込んでくる。彼が見た景色、感じた恐怖、そしてこの映画を終わらせられなかった理由。
「俺は、あんたの続きを撮っているんだろう?」
光田はそう呟きながら、ディレクターズチェアの背もたれに手をかけた。
すると、椅子がギシリと小さく軋んだ。
誰も触れていないのに、まるで「お前を待っていた」と言わんばかりに。
光田はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
その瞬間――世界が歪んだ。
まるで映画のフィルムが回転するように、視界がブレ、光田の意識は暗闇に引きずり込まれた。
気がつくと、光田はどこか別の場所に立っていた。
暗い森。霧が立ち込め、湿った空気が肌を冷やす。
「……ここは?」
見覚えがあった。スクリーンの中で何度も見た光景――『月夜の囁き』の撮影地。
だが、これは単なる夢ではない。光田は足元の土の感触、風の匂い、遠くでざわめく木々の音を、あまりにもリアルに感じていた。
「佐伯監督……?」
どこかから誰かの息遣いが聞こえた。振り向くと、そこには朽ちかけたディレクターズチェアがあり、その前に一人の男が立っていた。
白いシャツ、痩せた頬、鋭い眼光――佐伯謙一郎。
しかし、その顔には生気がなく、まるでスクリーンの中から抜け出してきた亡霊のようだった。
光田は言葉を発しようとしたが、喉が塞がれたように声が出なかった。
佐伯監督はじっと光田を見つめ、低く呟いた。
「完成させるのか?」
その問いが、光田の頭の奥に直接響いた。
「……あんたは、何を見たんだ?」
震える声で問いかけると、佐伯監督はゆっくりと後ろを指差した。
光田がその方向を見た瞬間、背筋が凍りついた。
森の奥から、影がゆっくりと近づいてくる――。
黒く歪んだそれは、光田自身の影に見えた。
「これが、お前の終わりだ」
佐伯監督がそう囁いた瞬間、光田の体は一気に椅子ごと引きずり込まれる感覚に襲われた――。
「光田さん!」
気がつくと、映画館のホールで渡辺沙織が顔を覗き込んでいた。
「……俺……」
額には汗が滲み、息が乱れている。いつの間にかディレクターズチェアに座っていた。
「大丈夫ですか? ずっと椅子に座ったまま、微動だにしなかったんです」
光田は呆然としながら周囲を見渡した。映画館はいつも通り――しかし、どこか違う気がした。
「……俺は、ここにいたのか?」
「それ以外にどこにいるはずなんですか?」
光田は言葉に詰まった。確かに森の中にいた――だが、それは現実だったのか? それとも、佐伯監督の記憶に引き込まれていただけなのか?
「この椅子……何かがおかしい」
呟いた光田の手が震えていた。
佐伯監督がこの映画を完成させられなかった理由。彼がこの椅子を残した意味。そして、自分が今、ここにいる理由――。
光田はまだ、それを理解しきれていなかった。
しかし、一つだけ確信があった。
この映画は、ただの映画ではない。
そして、この椅子に座る限り、自分は“何か”から逃れることはできないのだと――。
(第17話へつづく)
(文・七味)