studioBAKER Novel「Directors Chair」17
スタジオベイカー短編小説「ディレクターズチェア」
第17話「幻覚と現実」
光田浩一は、自分がどこにいるのか分からなくなりつつあった。
目の前には見慣れた映画館のホール。だが、どこかがおかしい。照明は僅かに明滅し、壁に飾られた映画ポスターは色褪せ、見知らぬ映画のタイトルが書かれている。時計の針は逆回転し、ホールの奥に置かれたディレクターズチェアは、まるで意志を持つかのようにわずかに揺れていた。
「……またか」
光田は額の汗を拭いながら、映写室へと向かった。
幻覚なのか、それとも映画が映し出す“もう一つの現実”なのか――。
渡辺沙織は、光田の異変に気づいていた。
最近の彼は、誰もいないはずの場所に向かって話しかけたり、撮影の合間に呆然と立ち尽くしていることが増えていた。
「光田さん、本当に大丈夫ですか?」
そう声をかけても、彼は曖昧に笑うだけで、決して答えようとしなかった。
しかし、それだけではない。スタッフの間でも、奇妙な話が広がり始めていた。
「光田さん、撮影中にずっと同じ場所を見つめてるんだよな」
「しかも、誰もいないのに『そこに立て』とか『もっと近づけ』って指示するんだ」
井上大輔や橋本恭平も、次第に光田の様子を不審に思い始めていた。
「もう……取り憑かれてるんじゃないか?」
冗談めかした井上の言葉に、誰も笑わなかった。
光田は映写室で、一人スクリーンを見つめていた。
映像には、薄暗い森を歩く男の姿が映し出されている。いつも見ていた『月夜の囁き』の未完成シーンだ。だが、その映像は少しずつおかしな変化を見せ始めた。
男の背後に、影が見える。
それは、以前のフィルムに映っていたものと同じ「影」だった。しかし、今回は明らかに違った。影はぼんやりとした黒い塊ではなく、徐々に形を成し、人の輪郭を帯び始めたのだ。
「……誰だ?」
光田はスクリーンに近づいた。
次の瞬間、男が振り向いた。
「――!!」
光田の背筋が凍った。
スクリーンの中の男は、自分自身だった。
その時、不意に背後でギシリと音がした。
振り返ると、映写室のドアが半開きになっている。誰かがいたのか? 光田はゆっくりと立ち上がり、ホールへと足を踏み出した。
ディレクターズチェアは、先ほどと同じ位置にあった。だが、その背もたれに誰かが座っているような「沈み込み」が見えた。
誰も座っていないはずなのに。
光田は恐る恐る椅子に近づき、手を伸ばそうとした。
その瞬間、椅子がギシ……とわずかに揺れた。
「……待っていた」
どこからか声が聞こえた。
光田の全身が粟立つ。
「誰だ?」
しかし、答えはなかった。ただ、椅子は静かにそこにあり、まるで光田が座るのを待っているかのように揺れ続けていた。
「……座らなければならないのか?」
そう思った時、光田の頭の中に佐伯監督の声が響いた。
「座れ。そうすれば見える」
光田は震える手で椅子の背もたれを掴み、ゆっくりと腰を下ろした。
――世界が歪んだ。
次に気がついた時、光田は映画館ではなく、森の中に立っていた。
暗い霧の漂う静寂な森。見覚えがある。スクリーンの中で何度も見た『月夜の囁き』の撮影地。
しかし、今回は映像ではない。足元の土の湿り気、肌に感じる冷たい風、遠くで揺れる木々のざわめき――すべてが、あまりにも“現実的”だった。
「……これは、映画の中なのか?」
ふと、目の前にディレクターズチェアが置かれているのが見えた。
その椅子には――佐伯監督が座っていた。
白いシャツを着た彼は、光田をじっと見つめていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「お前は、どこまで進むつもりだ?」
その言葉と同時に、森の奥から黒い影がじわりと迫ってくるのが見えた。
光田は震えながらも、その影から目を逸らさなかった。
「俺は、最後まで見る」
その瞬間、視界が再び歪んだ。
「光田さん!」
気がつくと、映画館のホールで渡辺沙織が顔を覗き込んでいた。
「……俺……」
額には冷や汗が滲み、息が乱れている。
ディレクターズチェアに座っていたまま、動けなくなっていた。
「何が……起きたんだ……?」
光田は震える手で顔を覆った。現実と幻覚の境界は、もはや完全に曖昧になっていた。
この椅子は、ただの椅子ではない。
光田の中で、確信が芽生えつつあった。
(第18話へつづく)
(文・七味)