studioBAKER Novel「Directors Chair」18
スタジオベイカー短編小説「ディレクターズチェア」
第18話「暗闇に響く声」
映画館のホールは、まるで深い海の底のように静まり返っていた。
撮影が進むにつれ、光田浩一は確信しつつあった。この映画には、何かが宿っている。 それは単なるフィルムではなく、記録でもない。映像の向こう側から”何か”がこちらを覗き込んでいるのを、光田は肌で感じていた。
そして、それを最も強く感じるのは――ディレクターズチェアに座ったときだった。
あの椅子は、ただの椅子ではない。佐伯監督が最後に座った場所。彼の未完成の映画が、彼の意思が、あるいは”彼の恐れたもの”が、今もそこに息づいている。
光田は、再び椅子に腰を下ろした。
ギシリ……
わずかに軋む音とともに、映画館の空気が変わる。
まるで、”誰か”がすぐ隣に座ったような気配。
「……誰だ?」
光田が呟いたその瞬間、スクリーンが勝手に点灯し、フィルムが回り始めた。
映し出されたのは、暗闇の中に立つ一人の男――佐伯監督だった。
彼は何かをじっと見つめている。表情はこわばり、目は怯えていた。
「これは……?」
この映像は、今までの未完成フィルムにはなかったはずだ。誰が、いつ撮影したものなのか?
佐伯監督の背後が、じわじわと暗闇に飲まれていく。まるで影が彼を包み込もうとしているようだった。
すると――
「やめろ……!」
突然、スクリーンの中の佐伯監督が叫んだ。
光田は息を呑んだ。
彼は、こちらを見ている。
「お前は……見てはいけない……!」
その瞬間、スクリーンが激しく揺れ、映像が乱れた。
ジジジジ……!
フィルムの焼けるような音と共に、スクリーンが真っ黒に染まる。
そして、暗闇の中で――
「……お前は誰だ?」
低く、不気味な声が響いた。
光田は思わず後ずさった。映画館の中に、誰かがいる。
暗闇が、こちらを覗いている。
「お前は……ここにいるべきではない……」
どこからともなく響く囁き声。それは一人の声ではない。複数の声が重なり合い、まるで映画館全体が囁いているようだった。
光田は、暗闇の奥を見つめた。
すると、ホールの隅に、ぼんやりとした人影が立っているのが見えた。
「……誰だ?」
その影はゆっくりと、映画館の奥から歩み寄ってくる。
光田はその場から動けなかった。心臓の鼓動が耳の奥で響く。
そして、影がスクリーンの光に照らされた瞬間――
光田は息を呑んだ。
そこに立っていたのは、自分自身だった。
「……これは、どういうことだ?」
光田は震える手で目の前の”自分”を見つめた。影は、光田と全く同じ顔をしていた。
いや、それは”影”というより、光田の”抜け殻”のように見えた。
影は微動だにせず、じっとこちらを見つめている。
そして、不意に口を開いた。
「お前は、ここに来てはならなかった」
光田の背筋が凍る。
影の声は、まるで映画館全体が囁いているように響いた。
「お前は……”あの時”、すでにここにいた」
「あの時……?」
光田の頭の中に、佐伯監督のノートに書かれていた言葉が蘇る。
「私は過去を撮っていたのではない。”未来が映っていた”のだ」
光田の体が冷たくなっていく。
「俺は……監督が見た”影”だったのか?」
影が微かに口元を歪める。
そして、映画館全体が暗闇に包まれた。
「……思い出せ」
その言葉を最後に、光田の意識は途切れた――。
(第19話へつづく)
(文・七味)