studioBAKER Novel「Directors Chair」21
スタジオベイカー短編小説「ディレクターズチェア」
第21話「未完のシナリオ」
旧倉庫で見つけた二脚目のディレクターズチェア。それは、光田浩一に新たな疑問と恐怖をもたらした。
なぜ、二脚あるのか? なぜ、一脚はホールで顕然と存在し、もう一脚は誰にも知られぬまま、閉ざされた扉の奥に隠されていたのか?
その答えの糸口は、椅子の裏に残された刻印にあった。
──S.K. 1973
佐伯謙一郎の名と、例の年。あの“何か”が始まった年。
光田はその椅子をホールに運び、既にあった椅子と並べてみた。
同じ形。だが、何かが違う。ふたつの椅子が並ぶことで、まるで空間が“反応”しているような、音もなく押し寄せる圧力を感じた。
その時、椅子の隙間から古びた紙束が落ちた。
拾い上げた光田は、目を見開いた。
それは佐伯監督の筆跡による、書きかけのシナリオだった。
表紙にはこう書かれていた。
『月夜の囁き』─最終稿(未完)
光田は息を呑んだ。
中身を読み進めるにつれ、彼の胸はざわついた。
既存のストーリーとは異なり、この最終稿は“映画の撮影”そのものを描いていた。
登場人物は、映画館に取り憑かれた監督。そして、“椅子”に導かれて、自分自身と向き合う男。
その男は、椅子に座るたびに“別の誰か”の記憶を垣間見る。
「ここは、記録されるための場所ではない。忘れ去られるべき記憶を呼び戻す劇場だ」
ページが進むにつれ、語りの口調は次第に変わっていく。
“登場人物の声”ではない。佐伯監督自身の心の声になっていた。
「私は自分の人生を撮っていたのではない。私が記録していたのは、他者の存在だ。誰かが、カメラの奥にいた」
光田の手が止まった。最後のページは破り取られていた。
だが、余白には鉛筆でこう書かれていた。
「影が語りかけてきた。私ではない私が、私を撮ろうとしていた」
その夜、光田は自ら椅子に座り、手元の原稿用紙にペンを走らせた。
佐伯監督のシナリオは未完で終わった。だが、このままではいけない。今、書かなければならないのは、“記録者としての自分自身の物語”だ。
「彼は椅子に座る。そして、椅子は彼に問う。『お前はここで終えるのか、それとも始めるのか』」
光田は気がついていた。
これは、誰か一人の物語ではない。
椅子に座った“すべての監督”の記憶が、ここに流れ込んでいるのだ。
数日後、光田はスタッフをホールに集め、新たな“シナリオ”を読み上げた。
「これは、佐伯監督が書けなかった物語だ。そして、俺たちが撮るべき“最後の記録”になる」
スタッフたちは押し黙っていた。光田の目に宿る執念と覚悟に、誰も言葉をかけられなかった。
「俺はこの映画を完成させる。そして、その先で……監督が見たものの正体を写し取る」
渡辺沙織が勇気を振り絞って尋ねた。
「……その先に、何があるんですか?」
光田は少しの間、沈黙したあとで答えた。
「それを知るために、俺はこの椅子に座るんだよ」
その夜、映写室ではスタッフの誰も知らない“最後のテストショット”が始まっていた。
カメラがゆっくりとホールを映す。2脚の椅子。誰もいないはずの舞台上。
だが、ファインダーの奥で、何かが微かに動いた。
誰かが、そこに“座っていた”。
映像に音はない。ただ、暗闇の中でかすかに響く声が、録音機の奥から聞こえてきた。
「……次の監督を、待っていた」
フィルムは静かに回り続けていた。
まだ、終わりではない。
この映画は“記録者”を変えながら、永遠に完成を待っている。
(第22話へつづく)
(文・七味)