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僕の足元には、いつも余計な影がまとわりついていた。 一歩を踏み出すたびに、その影は妙なタイミングで僕の足を引っかけ、歩調を狂わせる。見えない糸が絡みついて、やっと進んでも次の瞬間にはまた立ち止まってしまう。
映画監督を志したのはいつのことだっただろう。もう遠い昔のことのように思える。 胸に抱いた情熱と期待は、かつては燃えさかる焔だった。だが業界に飛び込んだ途端、それは冷たい水を浴びせられたように音もなく消えていった。黒く冷えた残骸となったその「何か」を、なぜか手放せず、くすぶる重みだけが僕を息苦しくさせていた。 撮影現場では予算やスケジュールが鉄柵のように立ちはだかり、仕上げた脚本は紙屑同然に突き返された。映画祭に出しても、僕の作品は透明な空気のように扱われ、誰の記憶にも残らなかった。 輝かしいキャリアのスタートを飾るはずだったデビュー作は、思わぬアクシデントに阻まれて途中で打ち切りになった。あのとき、背後で影が愉快そうに笑ったのを、僕は確かに感じた。
気がつけば、僕は深い森のただなかに立ち尽くしていた。 木々は絡み合い、空は塞がれ、進むべき道はどこにもない。 光のない世界で、影だけがその存在を強く残していた。
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喉の渇きで目を覚ますと、時刻は夜の10時を少し回っていた。 何か悪い夢でも見ていた気がする。あたりを見回すと、視界の端に無機質な小さな光がちらついた。歪な形になった発泡酒の缶が3本。寝ころんだまま足で蹴ると、ぺこん、と乾いた音が部屋に響いた。最後のひとくちを飲み干した後、缶を軽く握りつぶす癖がある。たしか夕方のまだ少し明るい時間から飲みはじめたはずだが、いつの間にか眠ってしまっていたのだろう。
起き上がって辺りを見渡すと、見慣れたはずの自分の部屋が、どこか遠い他人の部屋のように見えた。洗っていない皿が机に重なり、書きかけの脚本はコーヒーの染みで波打っている。壁に貼ったはずの映画祭のポスターは色あせ、端から剥がれ落ちていた。 暮らしの痕跡すべてが、どこか遠い誰かの忘れ物に見えた。暗がりの隅には黒い影が沈み込み、こちらを冷ややかに見つめているように思えた。
息を吐くと、喉の奥に酒と眠気の残り滓がまとわりついた。映画監督を夢見たはずの僕は、いまやこの狭い部屋で酔いつぶれるだけの日々に沈んでいる。目的も、行き場も、見失ったまま。 胸の奥に膨らんだどうしようもない苛立ちに突き動かされ、これ以上ここに留まっていることができなくなった。
外に出れば何かが変わるわけではない。けれど、街の景色や光がほんの少しでも影を薄めてくれるなら、それにすがりたかった。
足だけが勝手に前へ進み、僕を夜の街の隅へと追いやっていった。 歩き疲れてふと顔を上げると、不意に古びた看板が目に飛び込んできた。黒ずんで錆びつき、電飾は半分以上が落ちている。それでも「シネマ・エトワール」という文字が、かろうじて判別できた。今では廃墟と呼んでも差し支えのないような小さな映画館だった。そこには人の気配も、かつての賑わいの痕跡も見当たらない。
「こんなところに映画館なんてあっただろうか?」
僕は立ち止まり、しばらく看板を見上げた。記憶をたどっても答えは出ない。だが、奇妙な磁力のようなものが僕を引き寄せ、気づけば錆びたドアノブに手をかけていた。赤茶けた鉄扉のざらつきが、この建物の過ごした僕の知らない長い年月を、掌から伝えてくるようだった。
押し開けると、重い扉が鈍い音を立て、埃がゆっくりと舞い上がった。 ロビーは薄暗く、壁には色あせた映画のポスターの切れ端がまだらに残って張り付いている。目を凝らしてみると、かつての名優たちの顔の一部や、映画タイトルの断片が幽霊のように浮かび上がった。空気には独特の湿気と、どこか懐かしい匂いが混じっていた。 僕は一歩、また一歩と中へ進んだ。足もとで古びたカーペットが軋む音がして、それが夜の静けさを余計に際立たせた。
「君も映画好きかい?」
突然、背後から声がした。心臓がひとつ強く打ち、僕は振り返った。 ロビーの片隅に、いつの間にか老人が立っていた。白髪まじりの髪に、少し猫背の背丈。古びたスーツを身にまとうその姿は、どこか現実味を欠いていた。 皺だらけの顔に浮かぶ瞳だけが妙に澄んでいて、深い水底からこちらを覗き込んでいるようだった。
「ええ、映画監督をやっています。……一応ですが」
そう答えると、老人はゆっくりと口角を上げて、穏やかにうなずいた。
「なるほど、監督さんか。じゃあ、何かの縁かもしれないな。実はね、ここには不思議な伝説があるんだよ」
老人の声は、古いフィルムのノイズみたいにかすかに揺れていた。 彼の話によれば、この映画館がかつて華々しい時代を迎えていたころ、観客を魅了する数々の名作がここから生まれたという。そして、そのすべてを手がけたのが、ただ一人の天才監督――佐伯謙一郎だった。 その名前を聞いた瞬間、僕は思わず息をのんだ。佐伯謙一郎。映画史の片隅で神話のように語られる人物。ある作品を最後に忽然と姿を消し、その「幻の映画」は誰も完成を見たことがないとされている。
「佐伯の映画を観た者は、しばらく現実に戻れなくなったというが……魔法なのか、呪いなのか」
老人の声がふっと遠のき、壁や天井からも反響して聞こえてくるようだった。
「そしてな、この映画館には佐伯監督のディレクターズチェアが残っているんだよ」
老人は目を細め、ロビーの奥に視線を向けた。
「彼はあの椅子に腰掛け、数々の名作を生み出したらしい。彼自身の才能か、もしかすると椅子の力だったのか……それは誰にもわからない」
老人の言葉は、嘘か誠か、どちらとも思えたが、奇妙な説得力を持っていた。話しているうちに、現実と虚構の境目がゆっくりと溶けていくような感覚が広がっていく。
言葉に導かれるように、僕はホールの奥を覗きこんだ。
そこには、薄暗いステージの中央に一脚のディレクターズチェアがぽつんと置かれていた。 厚く埃をかぶり、布地はところどころ色を失っていたが、その存在感は異様に鮮烈だった。こちらを鋭く睨みつけ、まるでそこに腰かける者を待ち構えているかのように。 僕は思わず息を吞んだ。椅子には、ただ腰掛けるための道具以上のものが宿っている気がした。見つめれば見つめるほど、そこから目を離せなくなった。
「ところで監督さん。あんたの名前は?」
すっかり椅子に気を取られていた僕は、自分のことを聞かれているのだと気づくのに、ひどく時間がかかった。
「僕は……光田浩一といいます」 「ヒカリダ?知らんなあ」
老人は口元に薄い笑みを浮かべ、わざとらしく肩をすくめた。
「厳しい言い方かもしれんがね、無名であることは、監督にとって致命的だよ。観客の記憶に残らなければ、存在しないも同じ。だが……あの椅子なら、名を刻む力を与えるかもしれん」 その挑発めいた言葉が、胸の奥を鋭く刺した。悔しさと同時に、奇妙な熱がこみ上げてくる。 ふと足もとを見ると、影がひとりでに伸びていた。天井の明かりもろくに届かぬ薄闇の中で、僕の影は椅子の方へするりと這い寄っていく。 止めようとしたが、自分自身の影を引き留める方法など、あるのかどうかさえ知らない。影はただ前へ進み、僕を引っ張るように舞台へと導いていった。
「もし興味があるなら、座ってみるといいさ。佐伯監督もきっと喜ぶだろうよ」
老人の声が背後で柔らかく響いた。振り返る勇気はなかった。ただ、その言葉に押されるように、そして影の後を追うように、椅子へと歩み寄っていた。 けれど、座ることはできなかった。息は荒くなり、掌には汗がにじんでいた。椅子は近づくたびにどんどんと大きくなり、僕を呑み込もうとしているようにさえ見えた。
椅子の前で立ち尽くしたまま、胸の奥でざわめく何かに耳を澄ませた。 それは悔しさや焦りの残骸だった。積み重なった失敗の重みが、いま不意に別の形に変わろうとしている。
「僕も、この椅子に座れば……」
思わずそう口にしかけたときには、もう老人の姿はどこにもなかった。 気づけば、ホールには僕と椅子だけが取り残されていた。奇妙な静けさが、映画館全体を満たしていた。 誰もいないはずなのに、椅子は確かに僕を見つめ返してくる。
その瞬間、背後でふと気配を感じた。 振り返っても誰もいない。だが、見えない影だけが、足もとに静かに寄り添っていた。
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あの夜から、時間の流れが少しずつ狂っていった気がする。時計の針は確かに動いているのに、現実がそのテンポについてこれていない。まるで古いフィルムが巻き戻しの途中で引っかかって、音だけが先に進んでしまったような感覚だった。
僕だけを、このつまらない世界に取り残して。
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