Directors Chair
偉大な映画監督が遺したディレクターズチェア。
その椅子に囚われていく若き映画監督。
ディレクターズチェアに秘められた真実とは-。
第12話「意識の同化」
佐伯監督の未完成映画『月夜の囁き』を追う中で、光田浩一は次第に奇妙な感覚に囚われ始めていた。それは、ただの映画制作に伴う疲労やストレスでは説明できないものだった。まるで、佐伯監督自身が光田の中に入り込み、彼の意識を支配しようとしているかのようだった。
その日は深夜、映画館のホールでフィルムを再生しながら、光田は椅子に腰を下ろしていた。スクリーンに映し出される暗い森のシーンを見つめるうちに、体が急に重たくなり、視界が歪み始めた。頭に激しい痛みが走り、次の瞬間、彼は別の場所にいる感覚に襲われた。
気がつくと、光田は森の中に立っていた。暗闇が辺りを包み込み、冷たい風が肌を刺す。見覚えのある風景――それはフィルムの中で何度も見た、あの森だった。だが、今回はただの映像ではない。草の匂い、足元の落ち葉の感触、耳元に囁くような風の音、すべてがリアルだった。
「これは…夢なのか?」
光田は自問しながら森を歩き出した。目の前に見覚えのある影が揺れている。それはフィルムに映るあの影そのものだった。光田は意識せずその影を追いかけ、やがてぽっかりと開けた空間に出た。そこには、影が立ち尽くしている。近づこうとした瞬間、背後から誰かの声が聞こえた。
「お前も…ここに来たか」
その声は低く、どこか聞き覚えがあるような響きだった。振り返ると、そこには佐伯監督が立っていた。彼の顔は薄暗い中で曖昧だが、その眼光だけは鋭く光っていた。
「監督…なのか…?」
光田が恐る恐る問いかけると、佐伯監督はゆっくりと頷いた。しかし、その瞬間、佐伯監督の表情は不気味に歪み、次の言葉が光田の頭の中に直接流れ込んできた。
「俺が見たものを、お前も見るのだ。俺が感じた恐怖、孤独、絶望…すべてを知れ」
その言葉と同時に、光田の意識は一気に引き込まれた。映像のように脳裏に浮かぶのは、佐伯監督の記憶――撮影現場での孤独な戦い、影に怯える日々、そして未完成の映画を前にして押し寄せた絶望感。光田はその感覚をありありと体験し、心臓が締め付けられるような痛みに襲われた。
「やめてくれ!これは…俺の記憶じゃない!」
光田は叫んだが、佐伯監督の記憶は止まらない。次々と流れ込む断片的な映像が、彼の意識を乗っ取ろうとする。その中には、影が徐々に形を成し、何か恐ろしい存在へと変わっていく過程も含まれていた。佐伯監督が見たものは、単なる幻ではなく、何かもっと得体の知れない「存在」だったのだ。
「監督…俺を巻き込むな!」
光田が叫ぶと同時に、意識が急に引き戻され、気づくと彼はディレクターズチェアに座っていた。スクリーンは真っ暗で、映画館には不気味な静寂が漂っている。額には冷や汗が滲み、息が荒くなっているのを感じた。
翌日、光田の態度はさらに変わり始めた。仲間たちの前でもどこか上の空で、話しかけられても返事が曖昧だった。ミーティング中、橋本恭平が不安げに声をかけた。
「光田、最近おかしいぞ。本当に大丈夫なのか?」
しかし光田は笑いながら答えた。「俺は大丈夫だ。ただ、佐伯監督の映画が俺に語りかけてくるんだ。…いや、違う。彼自身が俺に指示を出しているんだよ」
その言葉に、仲間たちは一瞬凍りついた。だが光田はそのまま椅子に腰を下ろし、佐伯監督のノートを手に取った。その目は何かを追い詰めるように鋭く光り、そこにいるのはかつての光田浩一ではないように見えた。
光田は気づいていなかった。彼の意識が徐々に佐伯監督に侵食され、自分自身を失いつつあることに。彼の中にある「監督」と「自分」の境界線は、もはや消えかけていたのだった。